こんな「宮沢賢治をたどる旅」でした。【もりおか啄木・賢治青春館編(3)】

こんな「宮沢賢治をたどる旅」でした。【もりおか啄木・賢治青春館編(3)】 Architecture/建築
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宮沢賢治ツアー報告の7回目です。

もりおか 啄木・賢治青春館」の館内報告(の続き)です。

 

場所はこちら。

 

今回は、いよいよ賢治先生に関連する展示物についてお伝えします。
(石川啄木関連については、ほぼほぼ割愛します)

 

まずは、大きな年表から。見切れている左半分は啄木の年表。啄木は賢治先生より10歳年上でした。

 

盛岡市内における「啄木・賢治のゆかりの地」マップ。年表に加え、こういうのはお約束ですよね。

 

啄木・賢治の盛岡中学時代」の紹介パネル。賢治先生は勉学以外にいろんなことに熱中したので、卒業時の成績は「88人中60番」だったそうです。なんか、親しみが湧きます。(ただし翌年、賢治先生は盛岡高等農林学校(現・岩手大学)に首席で入学してますから、地頭(じあたま)は良かったんでしょうね、やっぱり)

 

 

賢治先生が書いた「生徒諸君に寄せる」。文字が小さくて読めないと思いますが、彼の出身校である盛岡中学(現・盛岡一高)の生徒に宛てた熱い想いが伝わる名文です。これは「青春」を感じさせる展示だと思います。

 

主な音楽・映画・舞台化作品」のリスト。上段が啄木、下段が賢治先生の分です。2000年までしか反映されておらず、例えばWOWOWさんが2017年に放送した『連続ドラマW 宮沢賢治の食卓』などは載っていません。

 

賢治先生の最初の作品は短歌だったそうで、啄木の影響も受けているそうです。方言で詠んだ歌とか、味があります。

 

賢治先生が「最も信頼を寄せた詩友、森 荘已池(もりそういち)」について、パネル丸々1枚使って紹介。賢治研究者としても知られ、1944年には直木賞を受賞したそうです。で、保阪嘉内はまだでしょうか?

 

「賢治と宗教」。賢治先生の精神世界におけるバックボーンがうかがえますから、これはこれでありかと。で、保阪嘉内との青春は?

 

ようやく「盛岡高等農林学校(現・岩手大学)」のパネル発見。「この時代、忘れられない3人の友との友情があった」ことが記されています。いよっ、待ってました!

 

先ほどのパネルを拡大。「特に寄宿舎で同室で、しかも芸術への高い教養を持っていた保阪嘉内との結びつきは強かった」とあります。「消えかかる松明を2人で吹きあい、岩手山に登り将来の夢を語り合った」とか「『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』のヒントを嘉内が提供した可能性」とか「賢治先生は嘉内に70通以上も手紙を送った。中には『我を棄てるな』と懇願した手紙もある」とか、もうちょい具体的に「結びつき」について言及して欲しかったかも。

 

農学校時代に4人で作った同人誌「アザリア」紹介のくだり。原稿内容が問題となり嘉内が退学処分となったことに触れて、「わずか2年余りの交流だったが、農学校で培った若き日の友情は、何よりも得難いものだった」とあります。うーん、この辺が「賢治先生の青春のピーク」だと思うのですが、「青春館」のわりに淡々とした表現ですよね…。

 

啄木・賢治先生の「ゆかりの人々」一覧。右の下隅で「保阪嘉内」も取り上げられてはいるのですが…

 

保阪嘉内:盛岡高等農林時代、賢治の1年後輩で同年。『アザリア』の同人。互いに影響を与えあった」って、これだけっすか? しかも保阪嘉内の「阪」の字がシール訂正されてます。 やっつけ感というか、嘉内軽視というか。なんだかなぁ…。

 

そうこうするうちに「賢治・追悼記事」パネルへ。まぁ、賢治先生はたしかに若くして亡くなりましたが、「青春の館」に追悼記事、要りますか?

 

ということで、まとめますと…

  • もりおか啄木・賢治青春館」は、盛岡市内中心部のなかでも一等地っぽい所にあるし、「青春」というテーマ設定もナイス。
  • 修学旅行生の見学コースになるのも納得。
  • そのわりに、「賢治先生の青春時代に影響を与えあった仲間、特に保阪嘉内の扱い」が、ちょいと雑かも。
  • これだと「子供の頃から早熟で多趣味で優秀だった賢治が、他人に影響を与えることはあっても、自身は誰にも影響されることなく(独力で)偉大な童話作家・詩人・農業科学者になったのだ」と喧伝されているような印象を受ける。
  • 郷土の偉人だからといって、人から影響を受けたりカッコ悪い部分があったらダメってわけじゃないだろ。
  • むしろ「あの賢治先生も、青春時代には大いに悩み悶々とし、友人たちに大いに影響されるなど、紆余曲折な日々を送っていたし、それが創作活動のモチベーションや肥やしになったのだ」というメッセージを全面に押し出したほうが、修学旅行生をはじめとする若い来館者の記憶に残るのでは?
  • 新聞の訃報記事を紹介するヒマがあったら、賢治先生の生前、特に青春時代のエピソードをもっと発掘・紹介してほしい。

こんなところです。

 

【補足】

賢治先生と保阪嘉内の“限りなくプラトニック・ラブに近い友愛の絆”だけを、ことさらスキャンダラスに紹介してほしいわけではありませんが、ステレオタイプ的に流布している「清貧で聖人君子な宮沢賢治像」は、そろそろ見直した方がいいんじゃないかと思います。

「まぁ、それにはあと10年ぐらい経って、今よりもっと『人間の多様な個性を受容する社会』になれば、賢治のイメージも変わってくるかも」という意見もあるでしょう。

しかし、賢治先生の足跡を体系的に展示する総本山(宮沢賢治記念館も含む)での紹介トーンがこのままでは、何十年後になろうとも「賢治先生の“カッコ悪くて人間くさい”部分」は伏せられ、ますます「神格化」していく一方だと思います。

※たとえば花巻農業高校の生徒さんたちだって、賢治先生のカッコ悪くて人間くさいエピソードを知ったとしても、先生を敬愛し続けると思いますし、羅須地人協会の「下ノ畑二居リマスの伝言板を今までと変わらずマメに上書きしてくれると思います。

 

 

 

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